日本屈指のサッカーライター森雅史によるインタビュー!
今回は、W杯を何回にも渡り取材し、Jリーグの公認ライターである森雅史氏にサカレコ本社を訪問していただき、サカレコ編集長である井手にインタビューを行っていただきました。
森氏が独自の目線から切り込む、井手の過去をインタビュー形式で3回に分けてお届けします!
前回の記事はこちらから:
W杯も取材した!Jリーグ公認ライター森雅史xサカレコ編集長井手 対談企画 第1弾
インタビュー第二弾
インタビュアー:森 雅史 (日本蹴球合同会社)
撮影カメラマン:浦 正弘 (フリーランス)
——ポジションはどこでしたか?
高校まではウイングでした。ギャラクシーでサイドバックにコンバートされて、そのあとはずっとサイドバックです
——ギャラクシーはどういうクラブでしたか?
12歳になって入ったギャラクシーのジュニアユースチームは、それまで僕が経験していたチームとはすべて違いました。環境やトレーニングなど、専門的で戦術的なプロサッカー選手を意識できるものでした。
それまで公園の芝生に自分たちでゴールを運んで週に2、3回の練習を行っていたのですが、ギャラクシーではスタジアムの近くに施設が建っていて、そこは天然芝と人工芝のピッチがありました。
飲み物は用意されていてトレーナーもいるし、治療も受けられる。全体トレーニング終了後も自分で練習できると、まるで違っていました。栄養もチームが契約しているスポンサーからプロテインや補助栄養食の支給がありました。
——家からギャラクシーに通っていたのですか?
学校に行ったあとに練習に行っていたのですが、僕が住んでいるところから練習場まで片道1時間から1時間30分かかりました。それを週4回、それに週末は試合で、他の州まで飛行機で行ったりしていました。そういう生活を5年間続けて、学校もなかなか通えず、青春という青春は経験できなかったですね。
——競争が大変だったのではないかと思います。
確かに競争は厳しかったですね。各年代の1チームは約35人なのですが、毎年その半分は入れ代わっていました。試合のメンバー入りするのは18人で、選手のほぼ半分はベンチ外ですし、交代枠は3人なのでベンチに入ったとしても試合に出られないメンバーは4人います。その中で試合に絡めない選手はすぐ切られていきました。プロに近い環境だったと思います。
——人間関係はどうでしたか?
アジア人がサッカーをしていると下に見られてしまうという感じはありました。ですから僕が先発で出たりすると、他の選手の親から「なぜアジア人が出ているんだ」というクレームがあったりもしました。すごくチームに馴染めたというわけではなかったですね。
——その中でサバイバルしていったわけですね。
その環境で戦術面も磨かれました。監督に気に入られていたときもありましたし、アメリカ代表のキャンプにも呼ばれたりしました。そこで実績を積んで、周りから文句を言われないようになったとは思います。
——その後、ギャラクシーではどのように過ごしたのでしょうか。
結局ギャラクシーには5年在籍しました。その間、毎年監督が代わりました。それはクラブの方針として、例えば今年U-13を見ていた監督は、翌年U-17を見るという感じだったからです。監督が見る年代をどんどん入れ替えて、複数の目で総合的に選手を見極め、プロに昇格させるかどうか決めていました。
監督によっては気に入ってもらったり、1つ上のカテゴリーでプレーさせてもらったりしましたし、前年はずっと試合に出ていたのに次の年はあまり出られないということもありました。トータルで考えるといい経験だったのですが、厳しい環境で、ストレスも大きかったと思います。
——落ち着かない日々を過ごしていたわけですね。
毎年「チームに残れないんじゃないか」と不安でしたし、残れるかどうか決まる時期はチーム内もピリピリしていました。翌年の契約がないということになっても、メールが来るだけなんです。精神的なケアをしてもらえるわけでもなく、厳しい競争の世界でした。
——その後、ドイツに渡るきっかけになったのは何だったのでしょうか。
16歳のときは18歳のチームでプレーさせてもらって、最終的にそのチームは全米で優勝したので、僕は絶対チームに残れるだろうと思っていました。そしてそのままプロ選手になるか、大学に奨学金をもらって行くか、どちらかだろうと考えていたんです。
実際にアメリカと日本の大学から奨学金の話をいただいていました。ですがそういう実績があっても18歳の年に契約が終わりになってしまったんです。そこで気持ちを切り替えて、奨学金を断って親の反対を押し切り、ドイツに行ってプロになろうと決心しました。
最後に
今回も最後までご拝読いただき誠にありがとうございました。第3弾も近々公開されるので、お楽しみに!
プロフィール 森雅史

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。在学中からサッカー関連の職業を探すが叶わず、一般企業へ就職。だが10年を経てサッカーダイジェスト編集部へ。その後、多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。ワールドカップは1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、2018年ロシア大会と現地へ。2011年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌へ、2018年にはイランのテヘランで日本戦の取材をした。Jリーグ公認の登録フリーランス記者
Twitter: @mori_masafumi
プロフィール 井手ウィリアム航輔

カリフォルニア州・ロサンゼルス生まれ。アメリカで高校を卒業し、15校以上の大学から奨学金のオファーがあったが、プロを目指すためすべてのオファーを断り、単身でドイツとスペインへ留学。スペインへ留学中、1部リーグCDレガネスとプロ契約。2020年契約満了とともに退団。2021年2月にサカレコ編集長就任。日本語・英語・ドイツ語・スペイン語の4ヶ国語を操るマルチリンガル。日本の出身地は広島県。
Instagram: @k.ide_football
Twitter: @kide_football
◆関連リンク◆
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森雅史の Football Is Alive
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