【ペレ】80歳 サッカーの王様の凄さを知ろう!

Pele

「サッカーの王様」の凄さとは何か

2020年10月23日で80歳となり日本でいう傘寿を迎えた、元ブラジル代表・ペレこと【本名エドソン・アランテス・ド・ナシメントEdson Arantes do Nascimento)】。サッカーブラジル代表として3度のFIFAワールドカップ優勝を成し遂げ、15歳でプロのピッチに立ってから引退まで、通算1363試合、1281得点を記録しました。その偉大な功績から「サッカーの王様」「サッカー史上最高の選手の1人」として評されています。

「サッカーの王様」「ペレは凄い!」とは聞くものの、一体何がすごいのか?漠然としている方でも、これを読めばペレの規格外の凄さがお判りいただけます!

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選手歴

クラブ

1954-1956 パウルAC(ブラジル)

元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに出会い指導を受けました。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え、選手として成長する上で父と同じように大きな影響を与えました。

1956-1974 サントス(ブラジル)

1956年にサントスに入団しました。体重が60kgに満たない華奢な体格だったことで、トップチームでプレーすることができず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積んでいきます。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし、この試合でサントスでのプレーでの初得点を決めています。以後18年間サントス一筋でプレーしました。

この間ヨーロッパの複数の有力クラブから、当時としては破格の待遇で移籍の申し入れがありましたが、しかしペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示しました。この移籍騒動は、後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展しています。

1974年10月2日、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となったのはポンチ・プレッタ戦でした。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げました。

1975-1977 ニューヨーク・コスモス(アメリカ)

1975年に北米サッカーリーグ(NASL)に所属するニューヨーク・コスモスに移籍します。この契約の背後には当時のアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの存在があったといわれています。1970年代当時サッカー不毛の地と呼ばれたアメリカにサッカーを普及させ、いずれW杯を承知したいと考え、ニューヨーク・コスモスへのペレの移籍の際には「わが国でプレーすることで発展に協力してほしい」との旨の公文書を発行し移籍を支援しています。

同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持し続けました。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わって、まるでオールスターチーム並みの様相を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得しました。サッカー不毛の地と言われたアメリカで、サッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれています。

同年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人(!)の観衆が詰掛けました。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし、前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾っています。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくりました。

代表

1957-1971 ブラジル代表

ブラジル代表としてのデビューは1957年7月7日のアルゼンチン戦です。16歳9か月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録でした。多くのブラジル代表に留まらず、たくさんの選手へ影響を与えたペレには、今でも賞賛されています。

1958年W杯スウェーデン大会

準々決勝のウェールズ戦でハットトリックを決めるなど、大活躍を見せ、ブラジルへワールドカップ初優勝をもたらしました。

この大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番がエースナンバーとなりました。しかしペレが10番を付けたのは、この大会でチーム内の抽選で割り当てられた番号だったという、全くの偶然の産物でした。

1962年W杯チリ大会

1次リーグの第2戦チェコスロバキア戦で太腿の筋肉を傷めたペレ。当時の規定では交代出場が認められていなかったため、ピッチに留まるしかなかったものの、ペレの負傷を知ったチェコスロバキアの選手たちはペレを故意に傷めつけることはしなかった。これもペレが尊敬され崇拝されていた証だといえます。その後の試合は出場できず、ブラジルはペレを欠いたものの、2大会連続のW杯優勝を成し遂げ、ブラジル代表は国民と国家のシンボルとなりました。

1966年イングランド大会

25歳の選手としてのピークで出場したこの大会では、大会前からケガを抱えていたペレ。予選リーグから度重なるラフプレーで負傷し、予選リーグ最終戦では怪我を押して出場したものの、相手の執拗なマークに苦しみ負傷退場せざるを得なくなりました。途中交代が認められていなかったため、ペレを欠いたブラジルは10人で戦ったものの敗れ、3連覇を逃します。すると選手や監督の自宅を暴徒化したファンが襲撃したり、ショックのあまり身投げをするファンが出る事態となりました。その後ペレは度重なるラフプレーの横行や、それを見逃す審判員たちに嫌気がさし、失意のあまり「ワールドカップには2度と出場しない」と宣言しました。

1970年W杯メキシコ大会

ペレは2年間のブランクの後、再び頂点に立ちたいと代表復帰を決意します。

前回大会出場のメンバーを中心に雪辱をかけ戦い、決勝ではペレの1ゴール2アシストの活躍で3度目のワールドカップ優勝を果たしました。

「ブラジルの奇跡」と呼ばれ、ブラジルの高度経済成長期を後押ししました。

代表引退

1971年7月18日にマラカナン・スタジアムで行われた試合を最後にブラジル代表からの引退を表明しました。ブラジル代表として国際Aマッチ92試合に出場、77得点を記録しました。ペレが引退後、ブラジル代表は24年間もワールドカップ優勝を手にすることはありませんでした。

ペレの凄さがわかる動画

当時の白黒映像のため、鮮明に見れない部分もありますが、それでも相手DFを1人、2人と抜いてゴールするシーンが数多くあります。今から65年前というと1950年代。世界の出来事でいうと、ワルシャワ条約の締結(1955)、サンフランシスコ講和会議(1951)など激動の時代です。なにせ第二次世界大戦が終わってから5年後、当時15歳だったペレがプロサッカー選手として活躍することが、現在のサッカー事情とかなり違うことが容易に想像ができます。

動画=YouTube:【サッカーの神様】ペレの偉大さがよくわかる動画!!ゴール&ドリブル集 スーパープレイ● 伝説のブラジル代表●ジンガ Pele Goals & Skiiis

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ペレから始まったペナルティー制度

テレビインターネットが普及していない情報伝達の遅い時代に、様々なプレーを考案し実行してきた開拓者がペレです。しかしその一方で、ペレのプレーを止める為にラフプレーが横行し蔓延する結果となり、1966年W杯後にペレは「もう2度とワールドカップには出場しない」と宣言しています。その結果、ラフプレーへの対策として、今では当たり前となった、選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入されるなど、ペレの存在がサッカー競技に変化をもたらした功績はとても大きいといえるでしょう

メディアのせいでペレはマラドーナと不仲になった?

南米で「神化」されているもうひとりの人物にマラドーナが挙げられます。2020年で60歳のマラドーナは1980年代から1990年代のスター選手として名実ともにカリスマ的存在となりました。マスコミは事あるごとにペレとマラドーナを比較しました。また、もともとブラジルとアルゼンチンはライバル関係にあり、両国のシンボルとなっている2人が、比較や批判の材料として繰り返し取り上げられていました。

その影響もあってか、ペレとマラドーナはお互いを認めている一方で、避難するシーンが度々あります。例えば2009年にマラドーナが「彼はW杯を多く勝ち取っているが、欧州でプレーするのはまた別のことだ」と、ペレの功績を揶揄すると、ペレは「マラドーナは偉大な選手だが、右足で蹴ることができず、ヘディングでの得点はなかった。彼がヘディングで決めた唯一の重要な得点はハンドだったことが判明している」と、すかさず反発。こんなことを時折繰り返していました。もしも、マスコミが煽らず、両国の関係性が穏やかであれば、2人はもっと仲が良かったかもしれません。

しかし2020年11月25日に60歳でマラドーナが逝去すると、即日ペレは自身のTwitterで追悼コメントを出し、Facebookページのプロフィール画像をマラドーナと映る2ショット画像に変更しました。その後もマラドーナとの2ショット写真を複数枚アップして追悼していることから、本当はお互いにリスペクトしあい、仲良くしたいと思っていたのかもしれません。

私生活では3回の結婚

ペレは今日まで3回の結婚をしています。

  • 1966年 白人女性と結婚。一男二女を授かる
  • 1978年 離婚
  • 1994年 心理学者でゴスペル歌手のアシリア・セイシャス・レモスと結婚。双子を授かるが、その後に離婚
  • 2016年 日系ブラジル人の実業家マルシア・シビーリ・アオキと結婚

上記からペレは5人の子供がいることになります。

2016年に現在の妻と結婚した時、ペレは75歳、相手は50歳と15歳の年の差婚でした。「本当の愛を見つけた」と喜んでいたペレ。奥さんに支えられながら、傘寿になってもブラジルサッカーの象徴として輝き続けるでしょう!

後世に語り継がれる偉人

いかがでしたか?ペレの存在が、ブラジル政府やアメリカの国務長官まで動かしてしまいました。

今では当たり前のルールと言える「選手交代」や「ペナルティー制度」ですが、FIFAの国際的なルール改正のきっかけがペレに対するラフプレーの蔓延だったとは、まさに伝説の人と言えます。

間違いなく【後世まで語り継がれる偉人】といえるペレと、同じ時代を共に生きることができる私たちは、もしかしかすると とても幸運なのかもしれません。

参照:Wikipedia(ペレ

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