日本サッカー冬の時代に日本代表の10番を背負っていた木村和司さん。
現役時代はクラブや日本代表でさまざまな記録を樹立。また、木村和司さんの代名詞であるフリーキックを武器に、記録だけでなく記憶に残るような数々の名シーンを作り出しました。
2020年にこれまでの功績が評価され、日本サッカー殿堂入りを果たした木村和司さんですが、62歳になった現在はどのような活動をしているのでしょうか。
Jリーグ誕生までの日本サッカーを支える
動画:YouTube『木村和司 スーパープレイ集 天才 伝説的なフリーキックの名手 ミスターマリノスと呼ばれた男 中村俊輔に受け継がれたDNA』
木村和司さんは明治大学を卒業後、1981年に日本サッカーリーグ(JSL)2部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部。JSL時代は日本年間最優秀選手賞を3度受賞し、1994年にはJSL記録となる12アシストでアシスト王に輝いています。
1986年にはプロサッカー選手登録制度が導入され、木村和司さんはこの制度に第1号として登録。日本で初めてプロ選手となりました。当時の年俸は1200万円だったといわれています。
木村和司さんは明治大学在学中から日本代表としても活躍。メキシコW杯アジア予選では日本代表の連続得点記録となる6試合連続ゴール決めました。特に、最終予選の韓国戦でのフリーキックは伝説として語り継がれています。
動画:YouTube『木村和司伝説のフリーキック』
1993年にはJリーグ誕生にともない横浜マリノスと契約。「ミスター・マリノス」と呼ばれ、ファンを魅了するプレーを見せました。
そして、1994年に現役引退を発表。引退会見では「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残しています。
監督として横浜F・マリノスに復帰
木村和司さんは引退後に指導者の道に進み、1997年には日本サッカー協会のS級ライセンスを取得。2001年にはフットサル日本代表の監督を務めました。
そして、2010年に横浜F・マリノスの監督に就任。前年10位であったチームを率いて一時は優勝争いに加わるものの、最終順位は8位に留まりました。
2年目となる2011年シーズンは前半戦を首位で折り返します。しかし、またもや優勝争いから外れてしまい、最終的には5位となりました。
結果だけを見ると毎年着実に順位を上げていましたが、「内容に積み上げがなく、戦術面での一貫した指導がない」とされ、木村和司さんは監督を解任されました。
現在は解説者やスクール運営などの活動を行う
引退後は指導者だけでなく、解説者としても活動する木村和司さん。Jリーグだけでなく、イングランド・プレミアリーグやドイツ・ブンデスリーガの解説を担当してきました。
2015年に脳梗塞で一時活動を休止しますが、治療やリハビリを経て解説業に復帰しました。
また、木村和司さんは横浜に大きな土地を購入。ソサイチやフットサルのコートを作り、スクールを立ち上げました。スクールでは子どもだけでなく初心者の大人の指導も行っています。
もう一回最低でも監督をやろうかなと。やらな、いけんな。あのまま終わっちゃいけんやろう。何かを残さんといかんな。サッカー界というか、よく言う「恩返し」というかさ、何かしていかんといけんな。
引用:「木村和司、初のオンライン取材 『もう一回監督をやらないけん』」
横浜F・マリノス解任から9年近く経っていますが、木村和司さんは今でも監督業への復帰の意欲を明らかにしています。
また、日本サッカー協会(JFA)は第17回日本サッカー殿堂に、木村和司さんとフィリップ・トルシエさんを掲額することを決定しました。
再びJのピッチで指揮を執る木村和司さんの姿が楽しみですね!
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